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まる.jpg   美術は「死」に向き合えるか
美術フォーラム21 第8号 (2003年6月27日) 醍醐書房

P. 108~113

特集―― <生と死>と美術

美術は「死」に向き合えるか
「メメント・モリ」再考

                  小勝 禮子

筆者はかつて、「死にいたる美術――メメント・モリ」と題して、美術(視覚表象)の中の死の表現を、展覧会というかたちで総覧してみたことがあった(町田市立国際版画美術館、栃木県立美術館、1994年)。その内容は2部構成で、第1部「死の版画史」では、15世紀から20世紀初頭までの西洋版画約100点と集め、かのデューラーの師、ミヒャエル・ヴォールゲムート挿絵の『ニュルンベルク年代記』(1493年)中の≪骸骨の舞踏≫や、ハンス・ホルバイン『死の舞踏』(1538年)を皮切りに、パウル・クレー≪樹の中の乙女≫(1903年)まで、ヨーロッパの「死の思想」の伝播を、複数(複製)芸術であることにより、イメージの主要な伝播手段でもあった版画によってたどってみた。この部門では、日本でも有数の西洋古典版画を所蔵する町田市立国際版画美術館のコレクションと、学芸員佐川美智子氏の多大な企画協力を得たこと、ヨーロッパ中世の「死の図像」の第一人者、小池寿子氏の寄稿、協力を得たことが、内容を充実させる大きな要因となった。
 そして第2部「現代の死」では、シュルレアリスムと第二次大戦を経過して以後の、20世紀の欧米、日本の現代アーティストまで、多様なかたちの「死」の思想の表現を追った。このように、西洋中世美術から20世紀の美術まで、一つながりの空間に展示することは、日本ではあまり例のないことだろう。その目的は、美術史と現代美術の断絶を取り払い、時代や地域を超えて死の思想が伝播されることを示したかったからだが、これに関しては思い至らぬところも多々あった。
 この展覧会は、町田市立国際版画美術館と栃木県立美術館の二館で開催され、ある程度の観客を獲得し、美術の中の「死」の表現に対して、広く注意を喚起する成果も得たように思う。(1) しかし今、10年近い時の経過を後で振りかえるに、「メメント・モリ」展を企画した当時の筆者の認識には、幾つかの欠落があったことを省みざるを得ない。小文では、その欠落を自省し、「生と死と美術」について、もう一度考察し直す機会とさせていただければ幸いである。

西洋解剖図と日本の解剖絵巻

欠落について総括するのは小論の結びとして、まず振りかえっておきたいのは、第1部「死の版画史」の中に入れた「和洋解剖図」の意味である。第1部の会場で観客の評判を呼んだのは、先述したホルバインからクレーにいたる西洋版画の中の、デューラー≪騎士と死と悪魔≫やカロ≪戦争の惨禍≫、ピラネージの廃墟版画≪ローマの遺跡≫やゴヤの黒い版画集≪妄≫、19世紀末のルドン、クリンガー、ムンクなどのなみいる美術史上の傑作ではなく、実にこの西洋解剖版画と日本の解剖絵巻だったのである。
 そもそも解剖版画は、言うまでもなく人間の身体構造を明らかにして近代医学に寄与すべく、解剖書の挿絵として描かれたものである。(2) 初期の人体解剖図を載せる西洋の書物はベレンガリオ・ダ・カルピ著『モンディーノの注釈書』(Bologna, 1521)であり、「メメント・モリ」展にも同書を始め、ヴェサリウス著『人体の構造について』(Basel, 1543)など主要な西洋解剖書を、野間科学医学資料館などの協力を得て出品した。「死の美術」展に解剖版画を含めた理由は、それが人体の身体を文字通り腑分けするものであり、人間の生死に対する基本的な情報を伝播するものだと考えたからである。実際、西洋解剖版画を渉猟してみると、それが「科学的」な身体構造ばかりではなく、西洋の人間中心主義の死生観まで伝えることに思い至ることになった。

美術は「死」に向き合えるか_d0119896_19242430.jpg すなわち、西洋解剖図の真の嚆矢である、ヴェサリウスの書物に入れられたヤン・ステファン・カルカール(ティツィアーノの弟子)の版画では、皮を剥がれ、筋肉を垂らし、骨格だけになろうとも、解剖途中の人体が段階を追いながら、パドヴァの風景を背景にして堂々とポーズを取って描かれている(3)【図1】。つまり解剖される人体はモノとしての死体ではなく、人間の尊厳を保持しているのである。こうした風景を背にしてポーズする解剖人体は、続くエティエンヌ著『人体部分の解剖図』(Paris, 1545)や、マニエリスティックで優美な人体のスピーヘル著『解剖学大成』(Amsterdam, 1645)、均衡のとれた理想的人体のアルビヌス著『人体の筋肉と骨格の構造』(Leiden, 1747)(4)まで、堂々と受け継がれる。
 それに対してきわめて対照的なのが、日本の解剖絵巻だった。周知のように、日本に西洋解剖学を伝えた嚆矢は、前野良沢、杉田玄白らによる『解剖新書』(1774年)であり、これはドイツ人クルムスの解剖書『ターヘル・アナトミア』(1734年)のオランダ語版からの翻訳だが、図版にはバルベルデ、ビロドーなど、他の解剖書の挿絵からも小田野直武が筆写し、木版画に彫版されている。

美術は「死」に向き合えるか_d0119896_19261941.jpg

 『解剖新書』以後の解剖図である小石元俊『平次郎臓図』(1783年)は、京都、円山派の絵師吉村蘭洲の写生による、きわめて詳細な写実画である【図2】。西洋の解剖図との際立った違いは、日本の解剖図が版画ではなく、絵師が実際に写生し、臓器の色まで、見たままの色彩を施した絵巻形式になっていることと、描かれた人体が西洋の用に非現実的なポーズを取ってはおらず、刑死体はあくまで死体として、首を落とされた体と、頭皮を剝がれて脳を露出させた頭部、徐々に解体されて吊るされる臓器などが、まったくのモノとして国名に写されていることである。少し後の南小柿寧一『解剖存真図』(1819年)も同じ形式をとった解剖絵巻だが、これは医師である南小柿が40余体もの解剖に参加した末に、彼自ら描いた解剖図であり、写実性と内容の正確さにおいて際立ったものだという。(5)
 西洋解剖図の、死によっても損なわれることのない人間の理想的身体という思想は、ヴェサリウスの解剖書が出版されたルネサンス期に誕生したものであるし、日本の肉筆解剖絵巻の死体は、「九相詩絵巻」や「地獄草紙」に見る中世的な死生観を、幕末日本がそのまま受け継いでいることを示してもいよう。


美術は「死」に向き合えるか_d0119896_1928282.jpg女性(妊婦)解剖図

 しかしより詳細に振りかえれば、今まで「人体」と訳してきた原題ラテン語は、humani corporisであり、通常、「男性」身体が描かれていることにも注意しなければならない。西洋の理想的身体とは、男性身体に他ならない。それでは、女性の身体は解剖図に描かれなかったかと言えばそうではなく、女性の場合、妊娠した腹部を開かれ、胎児とともに描かれる例が多い。そうした例は、すでにエティエンヌ著の、ロッソ・フィオレンティーノ原画ともされる≪女性生殖器官の解剖図≫【図3】に現れ、スピーヘル著にも同様の図が見られる。
 こうした女性の生殖器や胎内の図像は、当然のように男性の好色的な視線に結びつく。18世紀フランスのゴーティエ=ダゴティによる『人体解剖図』(Marseille, 1759)は、銅板多色刷りによる暗く沈んだ色彩と、23枚の図版を組み合わせて等身大に近い全身像を作るという独創性を示すが、女性像3点のうち1点は、しゃがんで妊娠した腹部を開いて見せる。男性像は頭蓋骨を半分に割られたり、すでに骸骨になっているのに対し、女性の場合は、髪を結い上げて誘いかけるような笑みを浮かべ、皮膚も生々しく描かれている。(6) 美術作品の裸婦像に向けられた観者(男性)の好色な視線については夙に指摘されているが、皮膚を剝された体内を晒された妊婦の解剖図への受容/需要に、こうした男性観者の欲望の視線が深く関与していたこともまた、フェミニズム批評が鋭く告発するところである。(7)
 とは言え西洋の解剖図のすべてがポーズする人体なわけではなく、ビドロー著『人体解剖図』(Amsterdam, 1685)のためのライレッセ原画の解剖図は、切り裂かれた人体を、死体としてそのまま精密に描いた先駆的な例であり、モノとなった死体には女性も多い。ハラー著『人体解剖図集』(Gottingen, 1743056)にも、解剖台の上に置かれた幼児の胴体がそのまま描かれている。これらの図像は美術的意味よりも科学的正確さを求めたものであろうが、それでもライレッセ原画の、背中の皮膚を剥がれ、ふくよかな両腕を紐で縛られた女性人体は、死体とは思えぬなまめかしい魅力を湛えている。『解剖学宝函』(Amsterdam, 1701-17)のルイシュのように、月足らずの胎児の骸骨を2、3体、防腐処理を施した臓器や骨、血管で作った山の上に立たせた背徳的なオブジェを作る医学者も現れ、さすがに周囲の倫理的な非難を浴びたと言うが、そもそも解剖図や解剖標本の陳列には、当初の科学的な意図を超えたいかがわしさが付きまとうのも事実であろう。(8)

1990年代の「身体」テーマの流行

 今から振りかえると、「メメント・モリ」展を開催した1990年代前半には、美術における身体をテーマにした展覧会が、世界中で開催されたことに驚愕させられる。その先駆は1989年に日本にも巡回した「アルス・メディカ ―― 美術で見る医療の歴史」展(9)であり、最も大掛かりなものは、1993年パリのグラン・パレを会場にした「身体に宿る心――美術と科学1793-1993」展(10)であった。日本の美術館でも、「からだのイメージ」展(静岡県立美術館、1991年)、「KARADAがARTになるとき(物質になった器官と身体)」展(板橋区立美術館、1994年)が相次いで開かれた。
 こうした「身体の復権」の奔流は、20世紀末のこの時期に「身体」の抑圧が極まったことへの反動と理解すべきであろう。養老孟司が『唯脳論』(青土社、1989年)を著して、脳において思考された現代社会は人工的な世界で、自然/身体が排除されていることを説き、布施英利が『死体を探せ』(法蔵館、1993年)で師の後押しをしたのが、まさにこの時期であった。解剖学者である彼らにとって、抑圧されている身近な自然/身体とは「死体」であった。
 さらに高山宏によれば、「死体の隠蔽」は、資本主義の必然でもあった(11)。それは19世紀半ばのヨーロッパに始まり、資本主義とともに全世界に蔓延する。カトリック西洋でも土中で腐敗する埋葬から、清潔、迅速な仮想に徐々に転換が進み、心地よい眺めの公園墓地によって墓の暗さを隠蔽し、高価な葬儀や流行の喪服売りつけ、死をファッションと化し、ショーと化す。こうして20世紀末の社会から、死体は見事に隠蔽されてしまった。これは日本にもそのまま当てはまるだろう。
 それに対する「死体の復権」で唖然とするのは、「人体の不思議」展である。これは延々と世界巡回しているらしく、日本では1995年の国立科学博物館を皮切りとし、筆者の知る限り、その後も横浜(1997年)、ベルリン(2001年)、福岡(2003年)で開催され、毎回何十万人もの入場者を集めている。その内容は、ドイツ、ハイデルベルク大学のグンター・フォン・ハーゲンス博士が開発した、人体の細胞から水分を抜き、そこに樹脂を染み込ませるプラスティネーションという方法で作られた、人体の実物の解剖標本を展示したものである。筆者も科学博物館に足を運んだ記憶があるが、人体が縦や横に輪切りにされ、また解剖図の約束事のように胎児を暴かれた妊婦も「展示されて」いた。本来のホルマリン漬け標本と違って、持ち運びも簡単で、匂いもなく手に取ることもできるこの標本は、確かに医学に有益なものでもあろうが、こうした公開の仕方は、見世物めいた感をぬぐえない。ルイシュの胎児のオブジェと同じいかがわさを共有している。
 フォンス・ハーゲンス博士は、「死について心を閉ざすことなく、楽しい気分で死にアプローチできる」と語ったというが、この展示欠けているのは死者に対する敬意であり、死の思想である。恐怖と嫌悪を取り去った「明るく、軽い死体」は、死の重々しさと死への畏怖をも根こそぎにしてしまう。

「死」「喪失」に向き合う現代美術

 それでは、「死の思想」を包含する造形表現とはどのようなものだろうか。「死にいたる美術――メメント・モリ」展、第2部「現代の死」は、そうした意図で構成した。第二次世界大戦の大量殺戮を生き延びたシュルレアリストたちから、現代日本の美術に至る作品に、それぞれ詳しく言及する紙幅はないが、ここでは直接的に「死体」を扱った作品を集めたのではないことを断わっておきたい。倫理的なタブーを破り、資本主義社会の中で消費される死を提示するために、死体そのものを表現の対象とする20世紀美術は、特に写真や映像を使ったものでは珍しくない。20世紀を通じて世界のさまざまな場所で絶え間なく起こり、現在も起こっている戦争に取材した写真はその顕著なものであろう。
 しかし「メメント・モリ」展では、むしろ「死」に向き合うことで、必然的に「生」の意味を照らし出すような作品を集成することにした。死や、死のもたらす病や苦痛は身体のみにかかわることではなく、精神によって増幅も緩和もされ得るのであり、そうした精神のあり様を規定するのが、社会の文化であり、また芸術の関与し得るところなのではないかと考えたからである。
美術は「死」に向き合えるか_d0119896_19293099.jpg

 出品作家の一人で現代の木の彫刻家、戸谷成雄は、その代表作「森」(12)のシリーズ【図4】に対して、「緑の生き生きした森ではなく、失われた森、一回死んだ森を発掘している」と語る。(13) その作品は、両手を伸ばした作者の指先までに相当する高さの角柱(220 x 31 x 31 cm)30本から成るが、その柱はそれぞれチェーンソーで縦横に切り込みを入れられ、穴を抉られ、深深とした亀裂を負わされた上で、削り取られた部材を燃やした灰と白いアクリル絵の具を塗られている。その灰を塗る行為は、戸谷によれば「森の埋葬」であるという。埋葬とは「浄化」であり、「生きている者が死を自分のものにする、死を人間化して自分のものにしてゆくためのひとつの形式」だろうと続ける。戸谷の森を構成する柱は、普通連想されるように森の樹木であるばかりではなく、人体の表象でもある。それぞれの人が、人生にさまざまな苦痛を受け、生を全うした上で、あるいはその途上で死んで埋葬され、浄化され、浄化された群れと読むことも可能であろう。それらの柱はひとつとして同じ姿をしていない。
 その際重要なのは、埋葬の儀式が死者のためではなく、生きている者にとって必要だとの認識である。「メメント・モリ」展を企画開催した時点で、筆者は「自分の死」と向き合うことだけを念頭に、死の表現を探っていた。しかしその後の経験から、かけがえのない他者の死と向き合うことの苦痛を、切実に思い知ることになった。これこそ冒頭に述べた筆者の大きな欠落のひとつであったが、作家と作品は企画の意図を超えて、他者の死による喪失の苦痛と向き合っていたと言うべきであろう。
 こうした死による喪失と向き合うのは、戸谷成雄ばかりではない。「メメント・モリ」展の終了後、井上廣子の作品を知ることになった。大阪出身の井上は、1995年の阪神・淡路大震災を経験して以後、人間の生死、不在と記憶のテーマで発表を始めている。井上のこうした作品は、精神病院の内部と窓を撮影した写真(サテン布にプリントし、10数個の鉄製ライトボックスに被せたもの)を床に並べたインスタレーション「不在の表象」(1997年、【図5】)から始まる。(14)壁には病院の窓を外と内から写したモノクロームの写真が掛けられている。隔離され、疎外された患者の生の気配は、ベッドのシーツやまくらの写真にうかがえ、またその写真がプリントされた支持体が布であることから、親密な手触りを感じさせる一方、イメージは布の繊維に添って揺らめき、現実感を喪失させられている。そして病室の内側からの視線は、窓の外側からの視線と窓ガラスでぶつかることになる。入院患者と外側の「正常」な人間との境界。その境界はしかし曖昧であり、いつでも交換可能ではないかと井上は問いかける。異常と正常の境界はそのまま、隔離と自由、死と生にも横滑りし、人生に確固とした規範はないのだと揺さぶりをかけてくる。

 こうした人間の生と死の問題に深い眼差しを向ける美術が、21世紀の現代に存在するのを確認できることは幸いであろう。それらは安易な慰謝(もはや手垢にまみれた「癒し」という言葉)を与えるものではなく、むしろ死や病気、苦痛などを、忌避すべきもの、隠蔽すべきものとして来た近代社会の固定概念を暴き立て、私たちの意識を覚醒させる。(15) 死や病や苦痛は身近なもの、人生とともにあるものだと、引き受ける勇気を鼓舞してくれる。
 それに加えて確認しておかなければならないのは、死や病や苦痛は決して万人を平等に襲うのではないこと、先進国と途上国、白人と有色人、男性と女性(16)、裕福な人々と貧困にあえぐ人々では、病や苦痛に苛まれる可能性が明らかに非対称なのであり、最終的に万人に死がもたらされるからといって、「平等」という神話に惑わされてはならないことだ。この点も、「メメント・モリ」展では綿密な洞察を欠いていた。「死にいたる」過程のさまざまな差違に注意深い視線を向ける中から、21世紀の文化・芸術は産み出されねばならない。
 「メメント・モリ」展開催当時は、湾岸戦争(1991年)の記憶が冷めやらなかったが、2003年3月20日、さらに大規模な侵略戦争とも言うべき、米英軍のよるイラク戦争が現実のものとなった。2001年9月11日にアメリカを襲った同時多発テロは、イスラムとアメリカの憎悪の連鎖の発端では決してなかった。帝国主義的支配に対するテロの応酬の歴史の根は深い。そして人類の病では、癌もいまだ治療されず、エイズの惨禍も日本の若年層で爆発する気配があるばかりか、昨今は原因不明の新型肺炎SARSが突如アジアに噴き出して来た。戦争という人間の愚かさによる圧倒的な暴力や、それに対する天の災厄のような病を前に、芸術にできることはあまりに小さく密やかに見えるかも知れない。それでも絶望してはならない。絶望することはできない。

 
1) 入館者数は町田市立国際版画美術館は1万2398人、栃木県立美術館は1万625人。展覧会カタログは町田、栃木と合わせて4000部刊行し、現在までロングセラーを続けている。

2) 西洋解剖図については、下記の文館が網羅的に紹介している。
K.B. Roberts & J.D.W. Tomlinson, The Fabric of the Body, European Traditions of Anatomical Illustration, Oxford, 1992

3) Andreas Vesalius, De Humani Corporis Fabrica, Basel, Johannes Oporinus, 1543

4) Charles Estienne, De dissectione partium corporis humani..., Paris, Simon de colines, 1545. Adoriaan van den Spieghel, Opera quae extaqnt, Ominia, Amsterdam, J. Blaeu, 1645. Bernhard Siegfriend Albinus, Tabulae sceleti et musculorum corporis humani, Leiden, 1747

5) 小川鼎三・解説『解剖存真図』復刻版、講談社。日本の解剖図については、日本医史学会編『図六 日本医事文化史料修正』第2巻、三一書房、1977年

6) Jacques-Fabien Gautier-D Agoty, Exposition anatomique de la structure du corps humain, Marseille, Antoine Favet, 1759. 町田市立国際版画美術館蔵。以下にカラー図版掲載。荒俣宏編著『解剖の美学』リブロボート、1991年

7) Elisabeth Bronfen, Over her dead body: Death femininity and the aesthetic, Manchester University press, 1992.
 フィレンツェのラ・スペコラ自然科学博物館の蝋製解剖人体標本(ワックス・モデル)も、妊娠した女性の腹部を皮膚や内臓を取り外して開いて見せるようになっているが、長い髪と美しい容貌を備えた若い女性裸体の究極のストリップ・ティーズの様相を呈している。

8) Govard Bidloo, Anatomia humani corporis, Amsterdam, J.a Someren, J a Dyk, 1685. Albercht von Haller, Icones anatomicae Quibus Praecipuae Aliquae Parles Corporis Humani, Gottingen, A. Van den HOeck, 1743-56. Frederik Ruysch, Thesaurus anatomicus, Amsterdam, J. Walters, 1701-17

9) Ars Medica: Art, medicine and the human condition (Exh.cat.), directed by D.R. Karp, 1985, Philadelphia Museum of Art. (「アルス・メディカ展――美術で見る医療の歴史」財団法人安田火災文化財団、1989年)

10) L’ame au corps, arts et sciences 1793-1993 (Exh.cat.), directed by Jean Chair, Galerie nationales du Grands Palais, oct. 1993 – jan. 1994.

11) 高山宏『目の中の劇場』 青土社、1985年。高山宏「『エクスポーズ』するいやはて――死のヴィジュアルという逆説について」、「死にいたる美術――メメント・モリ」展カタログ、1994年、15-24貢。

12) 「森」シリーズが30本を単位として制作されたのは、1987年から1999年。そのうち4組120本が、「戸谷成雄――さまよう森」展(国際芸術センター青森、2001年)で展示された。拙稿「森に遊ぶ万象--戸谷成雄とともに」(同点図録)も参照。なお、「メメント・モリ」展に出品された作品は、≪森≫1986年、≪アンフォラ≫1991年など。

13) 戸谷成雄インタビュー「プライマル・スピリット--今日の造形精神」展図六、ハラ・ミュージアム・アーク他、1990年、40貢。

14) 「不在の表象」アートフォーラム谷中、1997年。「魂の記憶」神戸、六甲アイランド、1998年。Absence, Düsseldorf, 1999. 「記憶・境界・不在」大阪府立現代美術センター、2001年。「呼吸の記憶Ⅰ」ヒルサイドギャラリー、2001年など。隔離のテーマは日本やドイツの精神病院ばかりでなく、ドイツの少年刑務所、ナチスの収容所跡地などにも取材された。

15) ディヴィッド・B・モリス著 ・ 渡邉勉/鈴木牧彦訳「痛みの文化史」、紀伊国屋書店、1998年(David B. Morris, The Culture of Pain, University of California Press, 1991) アメリカの作家モリスも、シカゴの美術館に展示された戸谷成雄の「森」から強烈な「伊丹」の衝撃を受けたことを、日本語版の序で語っている。

16) ドイツ・ルネサンスの版画の時代から、女性は男性を死に導く誘惑者として描かれ、死とエロスの(男性側からの)完備な結びつきが強調された。こうしたキリスト教を基盤とした思想は19世紀末の象徴主義芸術でも「ファム・ファタル」として繰り返され、現代の美術や広告などにいたっている。しかしそこには、誘惑する女性への欲望や執着と裏表の、抜き差しが対女性嫌悪が存在することに注目しなければならない。

by hirokoinoue | 2003-06-27 00:01 | 2003年
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